どうして見つかったか

毎年乳がん検診は受けており、半年前の検査も異常なしでした。

 

でも見つかったがんは4センチ程の大きさになっていました。しこりを作らず、乳管の中で静かに広がっていたのです。

10年ぐらい前のマンモグラフィで、乳腺がいつも張っているのであまりの痛さに脳貧血になったことがあり、その際に、無理しないでエコーにしたらいいと教わったので、それ以降毎年エコーで受けていました。それでいいと思っていたのです。

エコーも、マンモグラフィーも、得意なものが違うので、毎年交互に受けるのがいいと、がんになってから知りました。

健診では過去に一度だけ再検査になりましたが、結局は乳腺が固くて触れるのだと言われたことがありました。

 

 

さて、健診をスルーしてしまった私のがんがどうやって見つかったのか?ですが、今でも気持ちが悪いと思うような 偶然がいくつもありました。

 

何年も前に亡くなった母親が「これ使う?」と私にくれた 木のボディブラシをたまたま見つけて、あー、これ使わないなー使ってみてから捨てるかーとその夜のお風呂で使いました。柄がなくて使いにくく、ふと自分の左胸の下の方に手が滑り、「なんだこれ?」と 何かが当たっていることに気づきました。確かに奥の方に何か固い丸いものがあるのです。

あれー??・・・

 

その半年前に、会社の同期(出産のとき退職されました)が乳がんで亡くなり、同期達の連絡係を私がしていたのです。まだ小さな子供のいる、とても美人で優しい人でした。そのことが頭にすぐに浮かびました。その数ヶ月後、今度は職場の隣の列に座っていらっしゃった派遣の方が、同じ病気で亡くなりました。また、私の隣の席の同僚の妹さんがその数ヶ月後に同じ病気で亡くなりました。こんな、なんで連続で??と言うぐらい続いたときだったので、お風呂ですごい恐怖に襲われたのです。

 

また、同じようにしこりに気づいて「すぐ病院に行ったら問題ないものだったんだー」と言う友達の話を 少し前に聞いたばかりだったので、そうか、そう言う時は、病院に行けばいいのねと言う頭はありましたので、翌日すぐ地元のクリニックに予約をしてみました。

当日までは本当に怖かったです。

いざ 行ってみて、マンモグラフィーが怖くて10年ぐらい受けてないと言うと、ここのは痛くないから受けてみよう!と 言っていただき、早速撮ってみるとぜんぜん痛くなかったのです。痛くてこわいと思っていたことが案外簡単に済み、すっかり気楽になって診察室に入ると、先生に一言「あるね・・」と言われました。

 

「え?何が?」 と また急に不安に襲われて先生を見ると、私が気にしていた左側ではなく、右側のフィルムを先生が指差しているのです。

左の固いものは、たまにできるもので、しばらくすれば自然に消えてしまう。小さいのによく気づいて大したものだと言われました。

右側は、何も触れない、触っただけではわからないものが 写っていました。石灰化というものです。セッカイカ?? 

マンモグラフィでしかわからないのだそうでした。

 

映像を見ただけで これはおとなしいがんであること、4ヶ月したら再検査に来ることと言われました。その時4月末だったので、まぁー遅くとも10月ぐらいにくればいいよというお話だったのです。

「この現象、よくあることですか?」と聞いてみたのですが、「よくあることではない。11人に1人ぐらい。」と言われたのですが、今考えれば、乳がん罹患率を答えられたんだなと思います。その時はぜんぜん気付きませんでした。

「もし心配なら、今針さして検査してもいいよ?」と言われたのですが、あまりにもびっくりして決められず、とりあえず、一回考えたいですと言って、帰りました。

足がガクガクして階段がうまく降りれなかったです。

 

なんで今までマンモグラフィ受けてこなかったのだろう。過去に子宮内膜の治療で5年ほどピルを飲んでいたことがあったので、もしかしてあれが原因なのか・・と頭の中が勝手な後悔と原因探しでいっぱいになりました。意味のないことですが、とにかくパニック状態だったのです。検査しても、結果大丈夫だったよ、と言われることをなんとなく期待していたので、なおさらショックを受けてしまいました。

 

そしてその日の夜は、たまたま地元の幼馴染とご飯を食べる約束をしていました。

いつもの居酒屋に行って、いつものトマトハイを飲みながら

「なんか今日さー」と話して「〇〇(幼馴染)ならどうする?」と聞いてみました。がんって確か早期発見が大事だと聞くのに、待ってていいのかしら・・。今日早期発見されたのじゃないのかしら・・・と混乱していたのです。

すると友達は、うーん、いつも(循環器で)通っている大学病院でもう一回見てもらうなぁーと言ってくれました。そうか!そうすればいいんだ!と思い、週明けすぐに予約電話をすると、ちょうどGW中で、1日だけ平日の1週間後に予約が取れました。私は20代から循環器の病気でずっと通院しているので、予約がたまたまスムーズだったのです。

 

当日、予診を受けて、マンモやエコーを緊急で受けました。マンモも枚数が多いのが気になったし、エコーも広範囲に撮りました。首や鎖骨も念入りに写すので、「あーもうこれ、がんの検査だ・・」と落ち込みながら、本診の先生に会うと、「今から細胞診しよう。いつも月曜が検査日だけど(その日は金曜日)、今すぐ僕がやりますから。」と言われました。朝から行ったのにすごい混んでいて、その時点でもうお昼を過ぎていたのですが、まだ帰れないんだ・・・と思うのと同時に、病気が確定するのが怖くなり、「針さして大丈夫なんですか、もしがんだったら散ったりしないんですか」とかもう、ペラペラと変な質問をしていました。

 

すると、先生は「やらなきゃ 前に進めない!」と きっぱりと私に言いました。

 

それを聞いて「そうだ心配してても解決しないんだ。」と 頭がハッキリしました。

その時点で先生はがんを疑っていらっしゃったようです。言葉の端はしに出ていましたから、そういうことなんだな・・と 思ったのを覚えています。

それでも少しの望みを頼りに、どうかがんじゃありませんように・・と結果が出るまでの2週間を本当に憔悴した状態で待っていたのです。仕事に没頭している時はいいのですが、ひとりでいると考え過ぎてしまって辛く、友達によくごはんに付き合ってもらいました。ネットで少しでも安心できる内容を探していたと思います。今考えると本当にわざわざ自分から不安になるようなことをしてしまいました。夜も眠れず、何を食べても味がしない、本当に辛い毎日でした。

5/20が結果が出る日でした。がんなら、少しでも軽い状態ですように・・と思いながら診察室に入ると、今や どう言われたか覚えてないのですが、がんであること、今は画像上おそらく、乳管の中にしかないが、時間が経つと、管を破って広がってしまうから、取り去らないとならないこと、でも私の場合は「切ったら終わり。切ったら完治だよ」と言われました。DCISというタイプのものでした。

 

この先生の言葉がどれだけ心の支えになったかと今でも思います。

会社の上司にすぐ電話し、手術で休みたいがいいでしょうかとお願いしたら、そちらを最優先でいい。なんとかするから、心配するな と言ってもらいました。

 

先生に 手術をお願いしたいと伝えると、部分切除も考えていいかもとのことでしたが、完治するためには全摘とすでに調べて知っていたので、再建も最初から希望だったし、母親を見ていて、がんはその部分だけの話じゃないということをよく知っていたので、最初から全摘を希望しました。範囲も大きかったので、残すのもかなりたいへんだとはその時言われました。

また、術中検査でリンパの転移があった場合、3つあったら再建はしないで終わります。と言われました。まずないと思うけど とは言われましたが 怖かったです。

 

ところで、

最初にこの病院へ行って、その日に細胞診をしてくださった時、どんなことをするのか知らなかったのですが、針は ばちん!ばちん!と音がすごいわりに、すごい痛いというものではありませんでした。1回かと思ったのに、数カ所同じことをしました。

その当日の夜には、私はバレエ発表会の打ち上げ会があって、胸に大きなガーゼを貼ったままふわっとした大きな服を着て参加しました。確か1週間ぐらいはテープ付けっ放しだったと思います。

みんな楽しそうだけど私は・・と落ち込んでしまう気持ちを抑え、なんとか笑って時間を過ごしました。

この針の検査を、後日先生が「痛かった?」と聞いてくださったのですが、よく考えればあまり痛くなかったのに、精神的に参っていた私は「はい」と うなずいてしまい、先生をがっかりさせてしまいました。

 

それからは、手術用の検査が物凄い量だったのです。PETも初めて受けました。これ一番怖かったです。体のどこかに転移がないかどうかを見るためでした。

怖くて検査の空き時間に 遠くまで散歩して、神社にお参りし、カツ丼を食べて気合いを入れました。気合だけで頑張っていた感じです。気弱になったら負けだと思いました。

肺機能検査はすごく楽しい技師さんがいて、笑わせてくれて 本当に嬉しかったです。また、MRIは混んでいるので外部の施設に予約を取ってくれて行きましたが、大変嫌な思いをしました。造影剤が必要で、結果的に私は受けられなかったのですが二度と関わりたくない施設です。

再建希望だったので形成外科でも診察を受けました。同じ大学病院内です。そこでは、手術中に判断する人が必要なので、身内を連れてきてほしいと言われました。私はいちばん信頼している友達と、義理の妹にお願いして一緒に聞いてもらいました。先生に、「おっサポーターだな!」と言われました。二人ともメモを取ったり質問したり、本当に心強かったです。

初めて麻酔科の診察も受けました。ものすごい美人の先生がすごく優しく、何も心配しなくていいのよーと まるで癒されに来たような診察で安心しました。

手術時の麻酔でもついてくださった先生ですが、もう一人の麻酔科医の先生も女性ですごく綺麗、なのに、「起きたら終わってるの。いちばん痛いのは、血圧計のカフの締め付けよ(あれを痛いという人はほとんどいないと思います)」なんて笑って教えてくれました。

そんな検査通いの日々が終わり、すべての結果が揃った6月の頭に診察をまた受けにゆき、転移がないことがわかり、患側の全摘とインプラントによる同時再建の手術を待つことになりました。3週間後に手術です。2週間の入院と1ヶ月の自宅療養と言われました。

 

この時先生は、 もし私が地元の先生を信じて10月まで待ったら遅すぎる どうなるかわからない、とおっしゃいました。

 

私は偶然があれこれ重なって、ここまで導いてこられた としか思えません。

 

この時も、待合室にいたら弟が付き添いで来てくれていました。馬鹿話で気が紛れて助かりました。

 

ちなみに待合室ではいつも、大泉洋さんのエッセイを読んでいました。短編で、そんな時でも笑えるから不思議でした。

それからこの頃 真っ赤なトートバックを買って、いつも使っていました。赤いカバンを持って暗い顔をしていたらおかしいよな と思ってのことです。なんとか自分を保とうと、思いつくことをなんでもやろうとしました。バレエのお稽古も休まず通いました。今思いっきり身体を動かしておこうと思いました。

でも家に帰ると、何もできず動けなくなりました。大変なストレスだったと思います。だから少しでも忙しく、外に出ていたのかもしれません。

 

それからアメリカに住む、私の元同僚が、サバイバーであることを、ほんの少し前に知ったことが私をだいぶ助けてくれました。(これを知ったのも、同期の連絡係をしたことで偶然だったのです)

 

怖いぐらい、偶然がいっぱいあって、私はこうしてまた同じ生活ができています。