勉強していますか

お恥ずかしい話ですが、最近のYouTubeを見て初めて、うわぁ世の中にこんなに勉強している人がいるのかとびっくりしました。

私はといえば、ダラダラと動画や映画を見たり、買い物に行ったり、友達と会ったりの休日はリラックス。レッスンに行ってリフレッシュして、また1週間か・・なんて繰り返しでした。

それはそれで、仕事が大変なのでいいのだけど、何も変わらないなと思いました。

毎朝オンラインは受けるものの、それだけなので。

でも動画の中の人たちは、自主的にたくさん勉強していました。

その姿を見て、サボりそうな自分を奮い立たせては勉強しています。

語彙を自分で増やさないといつまでも同じ喋り方しかできないです。

 

あなたのモチベーションは何ですか?

英語と実務

英語は勉強しないとできるようにならないし、やり続けないとなりません。逆に言えば、やってる人だけがぐんぐん上手になっていきます。

外資系なので、ある程度は話せて書ける前提ですが、得意な人とそうでない人はすごくきっぱり分かれます。

文法や発音メチャクチャな人もいますし、それでなんとかなっています。でも、相手の理解力に頼る感じなので、正直にいうと、私はなるべくそうしたくありません。

 

過去、イギリスでの授業のディスカッションの時、発言しない人は見下されがち、何考えてるかわからない人、頭悪い人、みたいな扱いをされると身をもって体験したから、間違えだろうが変な英語だろうが、自発的に発言するようにしていたら、日本人生徒のスポークスマンと言われるようになりました。(クラスには日本人が他にもいたけどやっぱり、大勢の中で発言する人が当時いなかった)

ちょっと他人の発言に同意ぐらいのことでは、話すことにならなかったから。ここで度胸がついたというか。自発的な発言はとても大事だと思いました。

 

会社では乗り出して話す人が多いですが、私のいる部署限定ではそうでもないので、やっぱり私はよく話す人になってしまいます。他国同組織でよく話す人がいれば、あまり話しません。要は、自分より話す人がいて、同じ意見だと一歩引いちゃいます。

これは性格かも。日本語でもそうだから。

 

あと、すごく感じるのは、発音は綺麗なことに越したことはありません。

良き仲間!って感じで、いつも発言を助けてもらっている人は、そのままいつもそうなってしまいます。それはそれで、実際仕事ができる人はいいと思いますが、周りに負担をかけていると言えばそうなのですよね。

びっくりするほど、「日本人は英語不得意だからね、アシスト必要だよね」っていう共通認識が他国にあります。

私はこれが悲しいと思っています。

 

私の今の勉強方法は、オンライン英語は月に6回のチケットで10年ぐらいのんびりやっているのですが、去年からプレゼンの機会ができるようになってから焦って、コーチングを受けました。自分はなんでいつまでも同じレベルなのかと、他の人に見ていただこうと思って、1ヶ月だけ受けました。そこで勉強法を習って、すぐ受けたTOEICはやりたかった900点の壁を一度で越えられました。

要するに、必要なことをやってなかったとわかったから。必要な量をやってなかったから。コーチの勉強量は半端なかったです。そういう努力を積み重ねてそこにいるんですよね。

そこから、毎日のビジネス英語のレッスンを受けています。そこで今までゼロだった進歩を少し実感できるようになりました。

実際の場面で出てくる単語やフレーズを使うクラスなのと、会社の先輩や同僚のようなトレーナーなので、自分の言葉で自発的に説明する練習ができることが私にあっていました。

また、知っている言葉と単語だけで話す短い文章から抜け出していかなくては!と焦っていたので、始めて良かったと思っています。ただやっぱり楽しいレッスンばかりじゃないから、それなりに頑張らないとできません。

簡単な文章で伝わる!は、その通りですが、同じ単語、同じ文章だと英語力はずっとそこに留まります。

良い表現はいくらでも工夫できます。シンプルで、相手に届きやすい文章は、簡単じゃないです。日々葛藤と悔しさでぐちゃぐちゃになって、レッスンのモチベーションが保てるような、そんな日々を過ごしています。

 

 

 

新たに・・

内容が内容だけに、書いて辛いこと思い出したりして、結局書けなくなってしまった過去記事でしたが、アウトプットはしたくて最近また場所を探して迷走の末、ここに戻ってきました。

 

私のことを改めて書きます。

外資系のIT企業に長く勤めています。今はサプライチェーンで、海外の部門と日本のビジネスとの間に立って調整役のような役割が多いです。簡単に言えば、板挟みによくあっています。

 

英語教室に幼稚園から通わされていた子供でした。塾は大嫌いでしたから、サボっては先生からの電話で知った母に叱られ、宿題ができないと叱られ、とにかく辛い英語教室でしたが、クリスマス会だけは大好きでした。特別なケーキとお紅茶をいただきながら、英語でクリスマスソングを歌います。それが楽しかったのです。

意味はわからないのに、音で音楽と共に耳に入って簡単に覚えられました。家でもそれを歌っては両親が喜んでくれたことが思い出に残っています。

 

そんな感じで英語は小さい時から聞いていたので、学校で英語が始まると簡単に感じたし、いつでも褒められるようになって自分は英語が得意!という勘違いがここで始まりました。高2で英検2級が受かりさらに勘違いは進みました。

だけど、何がやりたいかわからなくて、なんとなく英語が得意だし、両親の勧めもあり教職コースを選びましたが、免許はとっても先生ができる自信もなく、卒業後は一般企業に就職しました。

でも2年も経つと、やっぱり英語で仕事したい・・というか、海外で自分を試したいと思うようになり、推薦で入れていただいた会社をやめて、高校の時の恩師がよく話していたイギリスで、ボーンマスの語学学校に通いました。

自分で学校を探し、全部自分で手配したのです。

 

ホームステイ先から学校に通いましたが、途中別の地域にも住んでみたい、他の学校も行ってみたいと思って、その学校をキリの良い時期の3ヶ月で辞めて、次の学校に現地で申し込んで、引っ越しました。あの頃もっと全然英語できなかったのに、恥ずかしいくらい度胸だけはあったみたいです。

なんであんなことができたのかと、今でも不思議です。

親はとても心配したようですが、私は羽が生えたみたいに、なんでもやってみてイギリスのあちこちにも旅をしました。なんでもできる気がしていました。

 

親との約束で、半年経って一度帰国し、次に海外行くために少し稼がなくちゃ、英語を使った仕事ができたらなー♪と応募して今の会社に入社しました。

最初は秘書になりましたが、数年働くうちに物足りなさに我慢できなくなり、転職を考えて翻訳学校やら英会話学校で発音矯正をしたりなど勉強しだした頃に、上司に呼ばれ、別の職種に応募してみない?と言われました。

会社の方針で将来秘書職がなくなるから、今ポストが空いているうちに移ったほうがいいかもしれないとの勧めでした。その上司は定年も間近で、自分がいるうちに知っている部署に異動させてくれたのです。

秘書ができないならと辞める仲間もいたけれど、私はここでキャリアを積む方を選んでみよう、ダメならその時と新しい職種で転部しました。

同じ会社なのに全く雰囲気が違ってなじめずに辛かったですが、上司の上司が前上司と仲が良かったので、時々ちょっと声をかけてくださり、それが私の心の支えになりました。

帰りに悔しくて泣いたことも何回もありましたが、仕事中は絶対に笑っていようと決めて負けずにいました。でもランチは一人になりたかったり、中の人たちとプライベートで仲良くしないように距離をとっていたりと、精神的にはちょっと無理しました。

そんな中で、家族の闘病があったり母が亡くなったりと、本当になんで生きてるんだろうと思う日々も正直ありましたが、でも、ここで選んだ仕事はもっとできるようになりたい、辞めるならもっと仕事ができる人になってからだ!という、変な意地もあったりして結果、これが私の支えになりました。

 

そんな、取り柄もなくただ流されて生きる人=私ですが、英語の話や外資系で働く人はこんな人もいるんだねーと気楽に読んでいただけたら嬉しいです。

日々のことを少しずつお話ししていけたらと思います。

 

よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

【今週のお題】どんな老後を過ごしたい?

まずは、無事に老後を迎えたい!!

私は祖母が50代で母が60代でそれも前半で亡くなっていて、

二人の分、老後の世界を体験しないとならない(←勝手に思っている)ので、100歳まで元気でいられるといいなーと半分は本気で思っている。ガンにかかってしまったのは想定外であったが その気は満々である。

 

今の仕事は自分のお尻を叩くのがたいへん。毎日少しずつ英語の勉強のためにBBCラジオを聴く、英語の記事を読む、レッスンを受けるなどなど そう言うことをし続けていかないとならない。

それでも私は幼稚園から英語を習わせてもらって苦ではないとは言え、まだまだ大変な努力が必要なので、それだけは継続している。

そうしながら、体力もつけながら、今の病気とうまく付き合いながら・・・・

あと何年今の会社に居られるのだろうか・・。老後の資金は足りるのだろうか・・。

家はどうするか。

なんて言うことを考えると、不安しかなく、かつ、私は子供の頃から恐ろしくスロースターターで、ギリギリでないと走り出さないタイプ・・。不安と言いつつ、行動しない自分に、そろそろ飽きている。

 

老後の夢は・・よく笑う日々であってほしい。

都心の駅に近いマンションに、ちびっこのワンコか猫と一緒に住みたい。

おしゃれをしてバレエや観劇に出かけたい。ピアノを習って、海外で空港ピアノやりたい。

仕事を持って、人の役に立ちたい。

パートナーと週末は一緒に過ごし たまに旅行をしたり。

いっそ、イギリスかフィンランドに住みたい。英語の通じる、治安のいい国で好きな仕事をして暮らしたい。仲良しのご近所さんやお友達ができるといい。

なんて・・

もう、ほとんど自分の好きなことの妄想でしかないのだけど・・。

でも、平和な世界であってほしい。その中でこその夢しか考えることができない。

 

 

 

インプラント・・

インプラントのニュースを知りませんでした・・。

いつも通り診察に行き、「情報として伝えるのだけれど・・」と先生から話を聞いたときは、「は?」と言ったくらい 寝耳に水でした。でもこのニュース、弟も知っていたし、友達も知っていました。私はなんて呑気なやつなのだ・・。一瞬落ち込みましたがでもなんだか、特に怖いともおもわず、まぁ、そうなんだなと思いました。

要するに、ピンと来なかった、というのが本音です。

私は術後に綺麗に元に戻ることを楽しみにして来たので、その目標のおかげでひどく落ち込まずに済んできたし、形成外科で最後までコンプリートしてもらって 病気の前と同じ生活をしています。

精神的にどれだけ支えになったかわかりません。

 

ただ今後・・。

何事もなく過ぎても、10年後には入れ換えの手術が必要なので 何れにしても 考える時が来るのですが、その時には また新しいものが開発されているとか 何か他のいいことがあることを少し期待して あまり深刻に考えないようにしています。

リスクはごく小さい と言うことがわかっているからです。

 

色々ありますよねぇ・・・薬の事で悩んでいたと思ったのに、次はこれか。

 

 

 

 

今気になっている新しい薬のことと、・・

今まさに、気になっている治療薬のことです。

色々ありながら、全体的には順調な経過を過ごしている3年目。
婦人科の定期検診で体がんの検査をしてくれていたのですが、毎年何事も無いので、
今回もそうだろうと思ったのに、いきなりの、異常発見。精密検査になりました。

ノルバテックスを飲んでいるので、この副作用で稀に起こる場合がある(メリットの方が大きいですが)
正直、なんでまた・・と思いました。

乳がんが見つかる3年前にやめていましたが、婦人科の治療でピルを5年ほど飲んでいた時期がありました。この副作用で乳がんが起こるかもしれないので、と、聞いていたので、乳がんになった時は、ピルのせいじゃ??ととても怖くなりました。(外科の先生からは原因はわからないと言われました)そのことがあったので、今回も、え・・薬のせい?と思いました。婦人科の先生も、これが本当に悪かったら、薬はもう飲めないよとおっしゃるので、たいそう落ち込みました。

9月に異常が出て、10月に精密検査(これが、イターーーーーー!!!!と 声に出るほど痛かったです。)で異常は出ませんでした。このまま何回か繰り返し、異常なしが続けば、間隔開けていくということでしたが、その後1月、5月と受け、両方とも異常なしなので、次は半年後で良くなりました。
先生ごめんなさいと思いますが最初のは本当に痛くて、自分の手をつねって我慢しましたがそんなもので追いつく痛さじゃなかったのです。
本当に痛い・・。人生に経験した痛みで2番目ぐらい(1番は足骨折)
でもこれで何かあったら、もっと痛い検査しなくちゃならない、熱も出るし、入院してもらうと先生に言われていたので、毎度毎度本当に緊張します。帰りに神社でお祈りするぐらい(性格がビビリなので)怖いのです。
ノルバテックス飲めなくなったらもう、どうすれば??という不安もありました。


結局は今も飲んでいるのですが、外科の先生(この日代診で初めてお会いした)が、やはりリスクを考えると、次から薬変えたらいいと思うとおっしゃるのです。。。
実は、外科の主治医の先生がご病気で突然病院を辞めてしまい、次から会ったことのない先生が主治医になることになりました。それ自体も憂鬱なのです。

今までの主治医は、一緒に頑張ろうと言ってくれる とにかく優しい先生でした。婦人科での異常で検査に呼ばれた時もすごくショックだったというと、検査受けてるから見つけてもらえるのだから、とにかく、精密検査受けてみよ?ねっ!と、後押ししてくれました。
再建で形成外科に2回手術入院した時にも、わざわざ様子を見にきてくれる先生だったのです。
そういえば、最初の手術の時にも、循環器の主治医の先生に連絡したよ、頑張ってって言ってるよ。みんな応援してるから頑張ろう!と
言ってくれたことが、今でも思い出されます。
すごく応援してもらいながら、乗り越えてこられました。

細かな声かけが、どれだけ私の気持ちを助けたかわかりません。
手術前夜も、家族説明で 術中診断で拡大手術になった場合は再建せずに終わると言われ、気持ちが落ち込んだところに、夜、先生が(帰る仕度で)よってくださり、「何か もやっとしてることある?」と聞いてくれて、術中診断が怖いと本音が言えたこと。また、退院後は(全摘だし、再建準備のバッグを入れてるし、投薬治療をすることになったし)、診断書を書くから、仕事は1ヶ月は休みなさい、生活や気持ちが落ち着いてから働けばいいから、もっと長くてもいいぐらいよと 言ってくれたり、本当に手厚く診ていただいたことで、私はいつでも前を向いてこられたと思います。

なので、今は、先生が変わることにも、新しい薬の不安もあり、憂鬱な気持ちになってしまいます。
薬変えるんだ・・・。また調子悪い時期がやってくるのかなぁ・・という憂鬱さと、新しい先生とうまくやっていけるかなという不安があります。

同じ乳がんの人たちは、どういう気持ちでいつも乗り越えるのだろう??

どうして見つかったか

毎年乳がん検診は受けており、半年前の検査も異常なしでした。

 

でも見つかったがんは4センチ程の大きさになっていました。しこりを作らず、乳管の中で静かに広がっていたのです。

10年ぐらい前のマンモグラフィで、乳腺がいつも張っているのであまりの痛さに脳貧血になったことがあり、その際に、無理しないでエコーにしたらいいと教わったので、それ以降毎年エコーで受けていました。それでいいと思っていたのです。

エコーも、マンモグラフィーも、得意なものが違うので、毎年交互に受けるのがいいと、がんになってから知りました。

健診では過去に一度だけ再検査になりましたが、結局は乳腺が固くて触れるのだと言われたことがありました。

 

 

さて、健診をスルーしてしまった私のがんがどうやって見つかったのか?ですが、今でも気持ちが悪いと思うような 偶然がいくつもありました。

 

何年も前に亡くなった母親が「これ使う?」と私にくれた 木のボディブラシをたまたま見つけて、あー、これ使わないなー使ってみてから捨てるかーとその夜のお風呂で使いました。柄がなくて使いにくく、ふと自分の左胸の下の方に手が滑り、「なんだこれ?」と 何かが当たっていることに気づきました。確かに奥の方に何か固い丸いものがあるのです。

あれー??・・・

 

その半年前に、会社の同期(出産のとき退職されました)が乳がんで亡くなり、同期達の連絡係を私がしていたのです。まだ小さな子供のいる、とても美人で優しい人でした。そのことが頭にすぐに浮かびました。その数ヶ月後、今度は職場の隣の列に座っていらっしゃった派遣の方が、同じ病気で亡くなりました。また、私の隣の席の同僚の妹さんがその数ヶ月後に同じ病気で亡くなりました。こんな、なんで連続で??と言うぐらい続いたときだったので、お風呂ですごい恐怖に襲われたのです。

 

また、同じようにしこりに気づいて「すぐ病院に行ったら問題ないものだったんだー」と言う友達の話を 少し前に聞いたばかりだったので、そうか、そう言う時は、病院に行けばいいのねと言う頭はありましたので、翌日すぐ地元のクリニックに予約をしてみました。

当日までは本当に怖かったです。

いざ 行ってみて、マンモグラフィーが怖くて10年ぐらい受けてないと言うと、ここのは痛くないから受けてみよう!と 言っていただき、早速撮ってみるとぜんぜん痛くなかったのです。痛くてこわいと思っていたことが案外簡単に済み、すっかり気楽になって診察室に入ると、先生に一言「あるね・・」と言われました。

 

「え?何が?」 と また急に不安に襲われて先生を見ると、私が気にしていた左側ではなく、右側のフィルムを先生が指差しているのです。

左の固いものは、たまにできるもので、しばらくすれば自然に消えてしまう。小さいのによく気づいて大したものだと言われました。

右側は、何も触れない、触っただけではわからないものが 写っていました。石灰化というものです。セッカイカ?? 

マンモグラフィでしかわからないのだそうでした。

 

映像を見ただけで これはおとなしいがんであること、4ヶ月したら再検査に来ることと言われました。その時4月末だったので、まぁー遅くとも10月ぐらいにくればいいよというお話だったのです。

「この現象、よくあることですか?」と聞いてみたのですが、「よくあることではない。11人に1人ぐらい。」と言われたのですが、今考えれば、乳がん罹患率を答えられたんだなと思います。その時はぜんぜん気付きませんでした。

「もし心配なら、今針さして検査してもいいよ?」と言われたのですが、あまりにもびっくりして決められず、とりあえず、一回考えたいですと言って、帰りました。

足がガクガクして階段がうまく降りれなかったです。

 

なんで今までマンモグラフィ受けてこなかったのだろう。過去に子宮内膜の治療で5年ほどピルを飲んでいたことがあったので、もしかしてあれが原因なのか・・と頭の中が勝手な後悔と原因探しでいっぱいになりました。意味のないことですが、とにかくパニック状態だったのです。検査しても、結果大丈夫だったよ、と言われることをなんとなく期待していたので、なおさらショックを受けてしまいました。

 

そしてその日の夜は、たまたま地元の幼馴染とご飯を食べる約束をしていました。

いつもの居酒屋に行って、いつものトマトハイを飲みながら

「なんか今日さー」と話して「〇〇(幼馴染)ならどうする?」と聞いてみました。がんって確か早期発見が大事だと聞くのに、待ってていいのかしら・・。今日早期発見されたのじゃないのかしら・・・と混乱していたのです。

すると友達は、うーん、いつも(循環器で)通っている大学病院でもう一回見てもらうなぁーと言ってくれました。そうか!そうすればいいんだ!と思い、週明けすぐに予約電話をすると、ちょうどGW中で、1日だけ平日の1週間後に予約が取れました。私は20代から循環器の病気でずっと通院しているので、予約がたまたまスムーズだったのです。

 

当日、予診を受けて、マンモやエコーを緊急で受けました。マンモも枚数が多いのが気になったし、エコーも広範囲に撮りました。首や鎖骨も念入りに写すので、「あーもうこれ、がんの検査だ・・」と落ち込みながら、本診の先生に会うと、「今から細胞診しよう。いつも月曜が検査日だけど(その日は金曜日)、今すぐ僕がやりますから。」と言われました。朝から行ったのにすごい混んでいて、その時点でもうお昼を過ぎていたのですが、まだ帰れないんだ・・・と思うのと同時に、病気が確定するのが怖くなり、「針さして大丈夫なんですか、もしがんだったら散ったりしないんですか」とかもう、ペラペラと変な質問をしていました。

 

すると、先生は「やらなきゃ 前に進めない!」と きっぱりと私に言いました。

 

それを聞いて「そうだ心配してても解決しないんだ。」と 頭がハッキリしました。

その時点で先生はがんを疑っていらっしゃったようです。言葉の端はしに出ていましたから、そういうことなんだな・・と 思ったのを覚えています。

それでも少しの望みを頼りに、どうかがんじゃありませんように・・と結果が出るまでの2週間を本当に憔悴した状態で待っていたのです。仕事に没頭している時はいいのですが、ひとりでいると考え過ぎてしまって辛く、友達によくごはんに付き合ってもらいました。ネットで少しでも安心できる内容を探していたと思います。今考えると本当にわざわざ自分から不安になるようなことをしてしまいました。夜も眠れず、何を食べても味がしない、本当に辛い毎日でした。

5/20が結果が出る日でした。がんなら、少しでも軽い状態ですように・・と思いながら診察室に入ると、今や どう言われたか覚えてないのですが、がんであること、今は画像上おそらく、乳管の中にしかないが、時間が経つと、管を破って広がってしまうから、取り去らないとならないこと、でも私の場合は「切ったら終わり。切ったら完治だよ」と言われました。DCISというタイプのものでした。

 

この先生の言葉がどれだけ心の支えになったかと今でも思います。

会社の上司にすぐ電話し、手術で休みたいがいいでしょうかとお願いしたら、そちらを最優先でいい。なんとかするから、心配するな と言ってもらいました。

 

先生に 手術をお願いしたいと伝えると、部分切除も考えていいかもとのことでしたが、完治するためには全摘とすでに調べて知っていたので、再建も最初から希望だったし、母親を見ていて、がんはその部分だけの話じゃないということをよく知っていたので、最初から全摘を希望しました。範囲も大きかったので、残すのもかなりたいへんだとはその時言われました。

また、術中検査でリンパの転移があった場合、3つあったら再建はしないで終わります。と言われました。まずないと思うけど とは言われましたが 怖かったです。

 

ところで、

最初にこの病院へ行って、その日に細胞診をしてくださった時、どんなことをするのか知らなかったのですが、針は ばちん!ばちん!と音がすごいわりに、すごい痛いというものではありませんでした。1回かと思ったのに、数カ所同じことをしました。

その当日の夜には、私はバレエ発表会の打ち上げ会があって、胸に大きなガーゼを貼ったままふわっとした大きな服を着て参加しました。確か1週間ぐらいはテープ付けっ放しだったと思います。

みんな楽しそうだけど私は・・と落ち込んでしまう気持ちを抑え、なんとか笑って時間を過ごしました。

この針の検査を、後日先生が「痛かった?」と聞いてくださったのですが、よく考えればあまり痛くなかったのに、精神的に参っていた私は「はい」と うなずいてしまい、先生をがっかりさせてしまいました。

 

それからは、手術用の検査が物凄い量だったのです。PETも初めて受けました。これ一番怖かったです。体のどこかに転移がないかどうかを見るためでした。

怖くて検査の空き時間に 遠くまで散歩して、神社にお参りし、カツ丼を食べて気合いを入れました。気合だけで頑張っていた感じです。気弱になったら負けだと思いました。

肺機能検査はすごく楽しい技師さんがいて、笑わせてくれて 本当に嬉しかったです。また、MRIは混んでいるので外部の施設に予約を取ってくれて行きましたが、大変嫌な思いをしました。造影剤が必要で、結果的に私は受けられなかったのですが二度と関わりたくない施設です。

再建希望だったので形成外科でも診察を受けました。同じ大学病院内です。そこでは、手術中に判断する人が必要なので、身内を連れてきてほしいと言われました。私はいちばん信頼している友達と、義理の妹にお願いして一緒に聞いてもらいました。先生に、「おっサポーターだな!」と言われました。二人ともメモを取ったり質問したり、本当に心強かったです。

初めて麻酔科の診察も受けました。ものすごい美人の先生がすごく優しく、何も心配しなくていいのよーと まるで癒されに来たような診察で安心しました。

手術時の麻酔でもついてくださった先生ですが、もう一人の麻酔科医の先生も女性ですごく綺麗、なのに、「起きたら終わってるの。いちばん痛いのは、血圧計のカフの締め付けよ(あれを痛いという人はほとんどいないと思います)」なんて笑って教えてくれました。

そんな検査通いの日々が終わり、すべての結果が揃った6月の頭に診察をまた受けにゆき、転移がないことがわかり、患側の全摘とインプラントによる同時再建の手術を待つことになりました。3週間後に手術です。2週間の入院と1ヶ月の自宅療養と言われました。

 

この時先生は、 もし私が地元の先生を信じて10月まで待ったら遅すぎる どうなるかわからない、とおっしゃいました。

 

私は偶然があれこれ重なって、ここまで導いてこられた としか思えません。

 

この時も、待合室にいたら弟が付き添いで来てくれていました。馬鹿話で気が紛れて助かりました。

 

ちなみに待合室ではいつも、大泉洋さんのエッセイを読んでいました。短編で、そんな時でも笑えるから不思議でした。

それからこの頃 真っ赤なトートバックを買って、いつも使っていました。赤いカバンを持って暗い顔をしていたらおかしいよな と思ってのことです。なんとか自分を保とうと、思いつくことをなんでもやろうとしました。バレエのお稽古も休まず通いました。今思いっきり身体を動かしておこうと思いました。

でも家に帰ると、何もできず動けなくなりました。大変なストレスだったと思います。だから少しでも忙しく、外に出ていたのかもしれません。

 

それからアメリカに住む、私の元同僚が、サバイバーであることを、ほんの少し前に知ったことが私をだいぶ助けてくれました。(これを知ったのも、同期の連絡係をしたことで偶然だったのです)

 

怖いぐらい、偶然がいっぱいあって、私はこうしてまた同じ生活ができています。